悟---さとる---    嵯峨 弘  さざ波のようなエネルギーが、確かに手のひらを通り抜けていった。 「ね、動いたでしょ」  妻が満足そうな笑顔を見せる。  着床から五ヶ月がたち、ようやく他人の目にも妊婦と気づかれるようになった丸い腹。そこに何らかの"意思"が育ちつつある。  順子は産みたがっている。だが、この子の気持ちになって考えてみろ。この子は本当に生まれたがっているのだろうか。 「明日、胎教スクールに行ってみようと思うの。階下の山口さんが一緒にどうかって。いけない?」 「胎教」 「うん」  と、順子はいとおしげに両手で腹を撫で回す。その充足感の表現は、何だか、腹いっぱい食べましたといっているようにも見える。 「この子には出来ること、全部してあげたいの。ひとりっ子になっちゃうかもしれないし、あたしの遺伝で頭悪かったりしたらかわいそうでしょ」 「お前は頭、悪くなんかないよ」  私の心配は、むしろ私自身の遺伝の問題だ。  頭の片隅には、決して言ってはならない残酷な言葉が蠢いている。  半年過ぎると中絶できなくなるんだぞ。  言ったところで順子が納得するわけもないし、私にしても特に明快な理由を提出できるわけではない。ただ不安だ、というだけなのだ。  子どもがこの世界に生まれて、喜んでくれるかどうか。 「胎教か」  ふと、妙なアイデアが浮かんだ。 「面白そうじゃないか。いいよ、行っておいでよ」  眠りにつこうとベッドに潜り込んで目を閉じると、長いあいだ周囲を土で押し固められているような気がしてくる。  ぷりぷりした、親指ほどもあるクロシデムシが一匹、左の眼窩に棲んでいる。硬いとげとげつきの、六本のキチン質の足でガサガサ頭蓋の中を歩き回り、あごで脳髄を食いちぎる。少しずつ、少しずつ生きる気力が失せていく。彼はここで生まれ育ち、あまり居心地がいいので外へ行く気になれないらしい。迷惑な話だが、私にはどうすることもできない。また、私も変に慣れてしまって、むげに追い出す気にもなれないのである。  小学校にあがる前に母が失踪して、父ひとり子ひとりで育った。父は今の私と同じく小さな貿易会社に勤めていたが、海外出張が多く、何ヶ月も帰らないこともあった。母が浮気をしていたのも、元はといえばそんな生活が寂しかったからに違いない。  父の神経は病的に敏感だった。  母親参観のプリントを見せるのが気まずくて、道々、紙飛行機に折って飛ばして持ち帰らなかったことがある。その夜、いつもより早めに帰宅した父の手には、私自身にさえ行方の知れなくなっていた正にその紙飛行機が握られていた。怒りに声を荒げるようなことはなかったが、いつの間にやら黙って背後に回りこんでいるようなやり方がひたすら不気味であった。一時は、本気で、俺の親父は超能力者だと言いふらしたこともある。  高校を卒業してすぐ、父と訣別した。  飲みすぎた父が、不意に絡んできたのだ。 「竜一、お前は幻聴を聞いたり、幻覚を見たりしないのか。金縛りとか」 「ないよ。そんなの」 「意外と子どもだな、竜一君。大人はだな、皆そういう経験を持ってる。その幻覚を出したり消したりというのは酒で出来るようになるが、消し方を忘れるとえらいことになる」 「どうなるのさ」 「死ぬ。死ぬんだ。俺は消し方を忘れちまった。だから、もうすぐ死ぬ」 「なに言ってんだよ。やだなぁ」 「お前の母さんを殺した報いだ」  薬の効き目を疑う患者のように、父はグラスにぐっと目を近づけて琥珀の液体を見分していた。酔っ払いながら酔えないことを嘆く、奇妙な悲しさがそこにあった。  天井裏から古新聞に包まれたシャベルが出てきても、私は納得できなかった。 「じゃあさ、掘り出そうよ。掘り出して供養すれば金縛りもなくなるよ」  本当のところ、そんな台詞は口だけだった。  胸に抱いたシャベルのずっしりとした重みは疑いようもなく、面倒臭そうな父をせきたてて夜道を歩いた。  すでに、父を許そうと決めていた。薄くなり出した父の後頭部を見下ろすようにして、憎しみより先に哀れみがたった。母のいない生活は寂しく、耐え難いと感じたこともあったが、それももう過ぎ去ったことだった。私は孤独に慣らされて育ち、いつしか、自分は孤独に強いのだという信仰を持つようになっていた。  幅が一メートルもない路地を通り抜けた時、手のひらが汗でぐっしょり濡れていることに気づいた。見慣れた角を幾つも曲がり、父はある場所を目指していた。そこへ行くために幼い私が幾千度となく往復した最短のルート、自分の手のひらの生命線より知り尽くしたそのルートを辿り、決して逸れようとしないのだ。  胸のシャベルを抱え直し、首まで使って固定した。そうでもしなければ、持っていられなかった。手指の芯が感電したように痺れ、力がまるで入らなかった。  やがて足を止め、「ここだ」と父がふり返った瞬間、私はシャベルの切っ先を父の額めがけて叩きつけていた。  私を思いがけない破壊の衝動に駆り立てたその場所、母が埋められているというその場所は私自身が六年間通った小学校の校庭だった。人生で一番寂しかった時期、一番母親にいて欲しかった時期に、私と私の仲間たち、無数の子どもたちは"母"を踏みつけにし、その上でサッカーをやり、ドッジボールをしていた……。  父が去った後、しゃがんで大地を撫でてみた。昼の日の光を吸い込んで、まだほんのりとした温かみがあった。何度か砂を掴み取り、握り締めた。母の骨のように思えた。  寝そべって体中で大地を感じようと努めた。夜空は雲に覆われていて、間から覗くわずかな星が、消え入りそうな光を投げていた。  本能的に目をさ迷わせて、月を探していた。  そうだ、俺はこんな目で母親を探していたのだ。当然あるべきものがそこにないという耐え難い現実。克服し、強くなったつもりだったが、違った。忘れていただけだった。  自分がどれほどかわいそうな子だったのか、はっきりと思い出した。喪失の再認識と自己憐憫がないまぜになって、頭が白くなるほど胸が痛んだ。  明け方近くなって、校庭の端、百葉箱の陰に穴を掘ってシャベルを埋め、帰って一年間、寝て暮らした。  生まれたての赤ん坊は暇さえあれば泣いているが、私にはあの気持ちが分かる気がする。過酷な体験が、何とはなしに精神の上に積み重ねてきた人生に対する楽観的な見解を根こそぎ奪い取り、傷つきやすい地肌をさらけだしてしまうのだ。  母の喪失は生皮を剥がれる痛み。  父の喪失は自身を去勢したような絶望感を招いた。今になって、その絶望感が私を縛る。  妻の腹に子が宿り、刻々と自分がかつての"父親"に近づいていく。  海外出張の多い今の職場が嫌いではない。ヨーロッパの美術・工芸品を中心に輸入し、小売店を通さず金のある得意先だけを相手にした呑気な商売だったが、昨今、"お宝ブーム"とかで契約数が異常に伸びている。少数精鋭を信条にしてきた筈の社長も今回ばかりは事業を拡大したい欲求を抑え難いらしく、毎日新しい事務所を探し歩いているようだ。  取引はもっぱら手紙と電子メールで事足りるのだが、まれに起きる事故の処理や新しい工房との契約、新商品の開発など、現地にいなくては出来ないこともある。今までは他人の出張まで喜んで引き受け、重宝がられていた私だが、家庭を持つ身ともなると、それも考え直さなくてはならなくなった。  父の犯した過ちを繰り返したくはない。  一週間のフランクフルト出張から帰ってくると、順子はホースの両端に漏斗のついた器具で自分の腹に向かって話しかけていた。 「お帰り。竜一君、これ、プリガフォーンって言うのよ。赤ちゃんと話ができるの」 「へぇ」 「あと一ヶ月くらいしないと、耳が聞こえるようにはならないらしいんだけど」 「なんだ」 「でも、分かんないでしょ? 耳がまだでも体で聞いてるかもしれないし。勉強を始めるのに早過ぎるってことないと思うの。そういえば、先生も言ってた。皮膚の細胞って出来始めの頃、耳のコルチ器って細胞に凄く似てるんだって。あ、そうだ竜一君、これ」  差し出した写真に白く不明瞭なものが写っている。 「心霊写真か」 「怒るわよ。これ、超音波写真で撮った二十二週間目の赤ちゃん、よく見て。ほら、ここ、おちんちん」  私はまじまじと、順子とその赤ん坊を見比べる。私が何もしなくても科学はどんどん進歩するし、順子はどんどん母になる。 「名前、考えたげてちょうだいな。早い内から呼んであげた方がきっと赤ちゃん自身の自覚にも役立つと思うのよね。『俺は誰なんだ』って悩まなくてすむでしょ」 「ちょっと…ネクタイ解く時間、くれよ」 「実はあたし、もう考えちゃったの」  背広を受け取りながら、順子はにっとはにかんだ笑いを浮かべる。 「なにを」 「名前よ。赤ちゃんの。"悟---さとる---くん"ってどうかな。頭、良くなりそうでしょ?」  順子とのことは、不覚というほかはない。  大学進学を諦めて働き始めた私は、すぐに自分が"社会"という名の共同幻想から外れてしまったことを知った。それまで気にもしていなかったあらゆることが神経に障ってならないのである。  人はなぜ嘘をつくのだろうか。  なぜ道端にゴミをする。  なぜ自分は正しいといつも信じていられるのだろう。なぜかくも貪欲なのか。傲慢で、残忍で、怠惰で嫉妬深く、そして、よくもまぁそんな自分に平気でいられるものだ。  つくづく、今までの自分は耐えていたのではない、麻痺していたのだと考えざるを得なかった。私が今まで持っていた"強さ"とは、鈍感になり、無神経になることによって得られる、痛みからの逃避でしかなかった。  原始の、自己保存の闘いに明け暮れる獣の時代から一向に進歩してはいないように見える人間たち。自分が傷つくくらいなる他者を傷つけることを選び、自分が傷つけられたなら、その分、他人を傷つけずにはいられない悲しき性質。  人は自分が傷つけられていない時ですら、他者を傷つけることができる。力が掟のこの世界では、痛みを真っ向から受け止め、耐え続けるよりは自分を欺いてでも受け流してしまう方が楽に生きられる。自身を欺くことさえ苦痛になってしまっては、私にはもう、生き場所はなかった。  転々と職場を替えたが、どこに行っても一人や二人は必ずいるのだ。酒を飲んでいるわけでもないのに自己に酔い、周りに主観を強要して憚らない人間が。口先ばかりうまくて世渡りは卒なくこなすものの誠実さの欠片もなく、苦しい時にはまるで頼りにならない人間が。  人を裏切る人間は、しばしば誰かに裏切られた過去を持ち、その再現を怖れて人を信じなくなり、裏切られる前に裏切るようになる。  決して自分から人を裏切ったりするまいと誓い、無理にも人を信ずれば、また一歩、他人からは"騙し易いやつ"と見なされる。果てしなく繰り返される、ほとんど自傷的な痛みの中で、次第に"死"が美しく見えてくる。  父も同じことを考えていたのだろうか。ひしひしと身に迫る孤独。死よりも苦しい時間帯に身を置きながら、いや、そうじゃない、明けぬ夜はなく、降りやまぬ雨はない、人生は残酷なのではなく、今、残酷な一面を見せているだけに違いないと、理性が教えるバランス感覚に従って何とか生きながらえている。  貿易会社に入り、あたかも息継ぎをするかのように日本を脱出する機会を得て、私の神経もどうやら鎮まっている。海外では、私は当り前のこととして異人であり、集団への帰属心や同質性を要求されたりはしない。その一方で、"日本"を捨て切れずにいるのは、それが"母親"のように簡単に死ぬものではないからに違いない。  恋愛は出来なくなった。性を否定するのではない。性を成さんがために、意識、無意識を問わず、"何でもあり"になってしまうのが嫌でたまらない。我とも知らず、恋愛は自己と他人の心を欺き、弄ぶように出来ている。  子どもをつくることはもってのほかだった。ある種の精神病は遺伝し、それは堕胎の法的な根拠とさえなり得る。  そうなのだ。もちろん、私は気がついていた。  世間が醜く見えるのは、世間が、ではなく、私がおかしいからなのだ。父を喪失した瞬間から、父の、あの異常に敏感な体質を受け継いでしまったのだ。ペシミズムを嫌悪しながらもペシミスティックな感覚から脱け出すことの出来ない私は、すでに立派な精神病者ではないのか。 ---人の世に生まれてきた河童---  醜悪な連鎖はどこかで絶たねばならない。父から継いだこの過敏な感受性で私は苦しみ抜いている。人間は鈍感なくらい図太い神経を持っているほうが幸福に生きられる。私の因子を継いだ子は、きっと不幸になる。  酒に溺れるようになった。あの、"家族"という温かみを手にすることは二度とないのだと思った。父を真似て飲み始めたスコッチは、少しは絶望感を溶かしてくれた。そして、もっと強い酒が必要になり出した頃、私は順子に出会ってしまった。  順子はバーのホステスだった。軽薄な騒々しいおしゃべりをサービスと心得ている女の多い中、無口で控えめな順子の存在は特異だった。無愛想なわけではなく、母性的な、沁み入る優しさを持っていて、中高年のサラリーマンたちの間ではなかなかの人気を博していたようだ。店では"かすみ"という名で呼ばれていたが、その語のはかなげな印象は彼女によく似合っていた。  出戻りだ、という噂だった。結婚だ、離婚だという話になってくると、用事にかこつけて決まって席を外すので、何かよほど触れられたくない過去があるものと察せられた。どんなに勘の鈍い男にも分かるように、そのパフォーマンスはしばしば再現された。その身の引きずる色濃い影は、男を遠ざけることもあったが、先にも述べたように、どちらかというと"しとやかさ"を醸しだし、男を引きつける効果をあげていた。  つまり、"餌"だったわけである。  順子は一切、積極的な素振りを見せなかった。私が勝手に喰らいついたのだから、その結果になにが待っていようと責任は私にあるのだ。  夏が来て、まず涼しげな浴衣姿に目が眩んだ。(日本を離れて改めて感じたことだが、こと食い物と女という根源的なものになると私はやはり日本を捨て去るわけにはいかない)  意外なほどの身持ちの固さにかえって征服欲をかきたてられ、部屋に通してもらえるようになった後には、料理など家事の得意な一面を見せられてすっかり惚れ込んでしまった。何より、順子は決してしなだれかかってこなかった。勤めを辞めたいとも言い出さなかったし、結婚のケの字にも触れなかった。どうやら、そういう類の願望はないか、あっても、心中深くに閉じ込めておくことにしているらしかった。私がセックスの結果を病的に怖れ、徹底して避妊にこだわることを知っても、彼女は黙って頷くだけだった。全てが順調で、理想的だった。  私はもう、自分の狭いアパートには帰らなかった。独り住まいにしては大きな女の高級マンションに泊まりこみ、そこから出勤した。海外主張の度、おみやげに自身専門の室内装飾を持ち返るので、部屋の雰囲気は次第に北欧的になっていった。私が部屋を作り変えていたこの期間、それに平行して私自身が順子好みに作り変えられていることに私は全く気づいていなかった。  いつの間にか、私は妙にいさぎよい、自分の行動にきちんと責任を取らなければ気の済まない性分になっていた。そのような、いわゆる"男気"は、多分、口に出して言わないまでも順子が潜在的に私に求めていたものだった。  私は無自覚にその求めに応じていた。後になって、演技だったかもしれない、自分は女の前で格好をつけていただけなのかもしれないと考えついたが、もう、遅かった。  その夜の順子は珍しく、勤めから帰って来るなり私を求めた。目のふちを赤く染めていて、激しく泣いた後であることは明らかだった。  言われるままにシャワーを浴び、箱に一つ残っていたゴムを手に取った。目の高さにある月の光が風と共に高層ビルの合い間を縫って室内に流れ、カーテンを揺らし、ベッドに腰かけ沈んだ感じで足元に目を落している順子の下着姿を青白く浮かびあがらせていた。 「あ、駄目だこれ。順子、最後のが破れてる」  私のあげた声に、かなり間をおいて女が暗がりから答えた。 「いいよ」 「なに?」 「そんなの、つけなくていいよ。あたし、不妊症なの。ずっと黙ってたけど、初めっからゴムなんていらなかったのよ」  トランクスをはいて隣に腰かけ、震える肩を抱いた。激しい胸の痛みが伝わってきた。 「十八の時、初めて好きになった彼との間に子どもができたの。どうしたらいいか分かんなくて、相談したら堕ろせって。だから、堕ろしたの---たまにあるらしいのよ。掻爬でどこか、傷つけちゃうんだって」 「でも、あたし、自分がそんな体になってることずっと知らなかったの。別の人と結婚して---その人、凄くいい人だったの。子どもが好きで、あたしに子どもが出来ないって知った時にはショックだったと思うけど、一緒に不妊治療しよう、根気よくやればいつかきっと治るって言ってくれた。いい人だったけど---でも、待てなかったのよね。不倫した相手の人との間に子どもが出来ちゃったの……」  不意に泣きたい衝動に駆られたらしく、女は自身を深く傷つける言葉を口走った。 「ね、あたし、あたしって、便利な女でしょ? 避妊しなくても好きなだけできるんだもの。だから---奥さんにしてなんて絶対言わないから、捨てないで……」  胸にすがって泣きじゃくる女をただ抱きしめ、撫でさすってやるしかなかった。ずいぶん長くそうしていてから、順子の求めに応じた。  今日、勤めからの帰りに後を尾けてきた男がいて、それが、"初めて好きになった彼"だったのだと順子は打ち明けた。男に何をされ、何を言われたのか、それ以上のことを女は語らなかった。ただ、「忘れたいの」と繰り返すばかりだった。 「忘れさせてちょうだい」  生まれて初めて、なまで女を抱いたが中には射さなかった。  二日おいて、数ヶ月ぶりに自分のアパートへ帰ってきた。しばらくは順子に会うまいと決めていた。  順子を"便利な女"だとは見なしたくなかった。だが、ゴムをつけたり、中に射さなかったりするのは、順子の不妊症を信じていないようで気まずいのだ。  私自身の抵抗感という問題もあった。私は今まで、間違っても子どもができないように避妊には特に注意を払ってきた。父親という責任ある立場になることへの不安もあったし、俺は病気なのだ、俺の遺伝子は残すべきではないのだという意識も強かった。ゴムに破れがないか注意深く調べ、装着すること、決して中に射さないこと、それらはもはや、私の第二の天性になっていた。  一週間が経ち、そこから更に二週間が過ぎた。一人暮らしのペースに馴染んでしまうと、順子とのことは終わりにした方がいいような気がしてきた。寂しくもなく、もともと俺は一人が好きなのだ、自由でいたいのだとすんなり感じ始めていた。そうして、順子を諦め、醒めた目で一連の出来事を俯瞰してみると、あの日、順子が熱心に私を求めたのには何か裏がありそうだった。最後のゴムに針ででもついたような穴のあったのが気にいらなかった。私は酒と相談の上、順子を忘れることにした。  台風が通過して、真夏日が戻ってきた。寝たいだけ寝た休日の朝、ミルクを電子レンジで温め、昨夜コンビニで買ったスナックパンを片手にベランダに出てみると目映い陽射しにくしゃみが出た。  窓を開け放してカビの生えた布団を干した。掃除機をかけ、コインランドリーで洗濯を済ませ、上出来だ、風呂場とキッチン周りはまた今度でいいだろうと、腰に手をやり、晴れがましい気分で部屋を眺め渡していると、背後で玄関のドアノブをガチャリと捻る音がして誰かが靴を脱ぎ、少し迷ったような間があって、客用のスリッパを履いたらしく、ペタペタと廊下を叩く音がやって来て、私の背後で立ち止まった。 「子どもができたの……」  無論、私には幾つも聞きたいことがあった。  確かなのか? 不妊症だって言ったじゃないか。それに、どうして俺なんだ? 俺は中に射さなかった。  俺は中に射さなかった!!  だが、そんなことを叫んでみたところで何になっただろうか。  順子は蒼白な顔で、じっと立ちすくんでいた。  叱られるのを待っているのだった。  だが、同時に、叱られた後には許して貰えるはずだと心から信じているのだった。  家族というものは、赤の他人と一生を過ごす決意なのだと分かった。  意外な発見だった。  女は勤めを辞め、私の籍に入った。  結婚以来、順子の性格は変わってしまった。明るくなり、快活になったのだが、影を失うとともに、その影が生み出していたしとやかさ、奥ゆかしさといったものも失われてしまったのは残念だ。あれは"かすみ"という名が規定していたものだったらしい。それが解きほぐれて、今の順子は実に多彩な面を持っている。高校生のようにはしゃいだかと思うと、もっと退行して甘えたり拗ねたりもするし、主婦になったり母になったりで言葉づかいも一定していない。正直言って、とらえどころのない性格であり、もてあまし気味である。昔の方がよかった。  友達をつくるのもうまいようなのだが、これは順子の特性というより妊娠、出産という女性ならではのイベントが連帯感を要求する性質のものなのだろう。胎教スクールは楽しいらしく、仕入れてきた様々な天才児の噂を頼みもしないのに教えてくれる。 「ねぇ、凄いのよ。加藤さんのお友達の子は二ヶ月でパパ、ママってしゃべったんだって」  それが驚くべきことなのかどうかも私には分からない。 「ね、隣の棟に木下さんって人いるんだけど、その妹さんの子どもの女の子、四ヶ月で立ち上がったんだって」 「それ、早いの?」 「早いわよ。普通は五、六ヶ月でハイハイ始めて、立つのは十ヶ月くらいだもん」  なるほど、だとすれば確かに早い。早すぎてちょっと嘘臭い。実を言うと、そういう現実離れした一種の伝説が堂々とまかり通っている世界というのは、何だか新興宗教っぽくて気味が悪い。実際、胎教スクールの月謝、教材費はなかなかいい数字である。これで天才が生まれなかったら訴えたいくらいだ。 「竜一君、知ってた? お釈迦様って、生まれてすぐに立って『天上天下唯我独尊』って言ったらしいよ。凄いねぇ」 「お前、それ、信じてるの?」 「そうは言わないけど、漫然と日々を送るよりは徹底的にトレーニングした方が天才児の生まれる確率は高くなるわけでしょ?」  それはそうかもしれないが、熱意のほどが尋常でない。順子には自身の学歴の低さがコンプレックスになっているところがあって、胎教ではあるがその教育ママぶりには頭がさがる。もしも、腹の中の"悟"が私の血と過敏な神経を受継いでいて、そこに科学の最先端をいく英才教育が熱狂的に惜し気もなく注がれるものならば、彼が人間以上のなにものかに育ったところで別におかしくない気もする……。  だが、さしあたって順子が朗らかでいてくれるのはいいことだ。初めての(と言っていいのだろうか)妊娠、出産を大勢の仲間に見守ってもらえるなら、それだけでも胎教スクールは有難い。 「竜一君も一度、講習に来てよ。ラマーズ法って、旦那さんも一緒にやるのよ。立会い出産は講習受けないと許可して貰えないんだし。立ち会ってくれるんでしょ」 「と、とりあえず、俺、明後日からまた出張だから、帰って来てから、な」 妊娠六ヶ月は瞬く間に過ぎて、悟は極めて微妙な立場にいる。法的には彼を堕ろすことはもう許されないが、法は別に、彼を人と認めたわけでもない。 順子は片時もプリガフォーンを手放さない。挨拶から始めて次第に語彙を増やしていく計画らしく、体の諸器官、花、果物、鳥、動物、自然現象などの単語をしつこく繰り返し唱えている。  朝はいつも、グリーグ作『ペールギュント』の「朝」で始まる。心安らぐ雰囲気をもった名曲ではあるが、胎児が同じように感じているかは不明である。その後にも、ビバルディ、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトなど、聞いたこともないような美しい曲が延々続く。  だが、私は胎教の持つ可能性を少々甘く見ていたようだ。 『キックゲーム』というのがある。胎動を感じたら、妊婦はトントンと腹を叩く。すると、トントンと腹の赤ん坊が蹴り返すというのである。位置を少しずらしても、ちゃんとついてくる。おまけに、こする、揺する、撫でるなどコミュニケーションの方法を替えるとそれに対しても同じ手段で反応し、最終的にはこれらを言語に胎児と「会話」が出来るようになるのだと言う。  順子が胎教スクールに行くと言い出した時ふと閃いた夢想染みた可能性を思い出した。 「順子、イエス・ノーを仕込めないのか」 「いやね、"仕込む"だなんて。でも、出来ると思う。悟は凄く頭いいから。そういえば竜一君、前に何か言ってたわね。赤ちゃんと話せたらどうとか」 「ん、まぁ、ね」  笑って誤魔化す。本当のところは、とても言えない。  それは単なる願望だった。いや、願望というのもおこがましい、ただの夢想だった。  父を喪ってからの一年間に悟ったことが二つある。一つは、人ひとりこの世からいなくなるということに対し、意外と社会は無関心だということ。もう一つは、自分は完全な自由を手に入れたのだということ。死にたくなったなら、生きている方が辛いなら、もはやいつ死んでも構わない。  誰も悲しまない。誰も止めやしない。  死ぬのは自由。  自由。  ジユウ…  一年間を寝て暮らした。意識の存在自体が耐え難い苦痛だった。飯を喰い、排泄し、眠った。他のことは駄目だった。ひたすら生理的な欲求に従事している間だけ全てを忘れることが出来た。  一年が過ぎ、ようやく僅かずつ意識と直面することが出来るようになったが、それはすでに、人はなぜ生きるのかという永遠の迷宮へ踏み込んだことを意味していた。 「生まれる時には誰も熟考して生まれるものは有りませんが、死ぬ時には誰も苦にすると見えますね」   夏目漱石「我輩は猫である」  つまりは、生きているということに理性的な理由はないということか。死ぬのは自由だが、生まれてくるのは自由ではない。死すべき理由は幾らも見つかるが、生きるべき理由は何もない。  では、質問を替えよう。お前は生きていたいのか? ……。 どうなんだ? お前は生きていたいのか? ……。  ただただ心臓がドクドク鳴っていて、それを答えの替わりにするしかなかった。  生きるということには、そればかりではないにせよ必ず苦しみがつきまとう。愛する我が子を誰がそんな目にあわせたいと望むだろうか。我が子の誕生を待ち望むということは、我が子に苦しむ機会を与えるということではないのか。  私には、我が子に"生きていて良かった"と言わせる自信がない。生まれれば必ず死ななければならない。生まれてくる機会を与えても、その生命、護り通してやることが出来ないのならつくるべきではないのではないか。  あまりに長い間孤独でいたためだろう。私には自分以外の誰かの生命に責任を---そう、"責任"だ、生命を護り、幸福にしてやるという責任を持つことが出来ないのだ。  順子の妊娠は災厄以外のなにものでもなかった。愛するからこその別れの辛さ、生きるからこその死の辛さ。いずれ必ず来る破滅への恐怖。諦念に抱かれていた方が、人間は案外、気楽に生きることができる。だが、そんな人間を生きているというのか?  私は生きているのだろうか……。 「堕ろすなら、今の内だ」  順子の妊娠を知ってのち、脳裏を廻るのはそればかりだった。順子自身を殺害することと何らかわりのない、残酷な台詞。いっそのこと、実際に順子を殺すことが出来ればどんなにすっきりするか知れなかった。だから、順子が胎教という言葉を持ち出した時、私はほとんど反射的に、夢のようなアイデアにとびついてしまったのだった。 「僕は生れたくはりません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから」   芥川竜之介「河童」  生まれてくる子が自分でこの世に生まれるかどうかを決めるなら、私にはその生命に対し何の責任もない。出来る限りのことはしてやるけれども、生まれてくる子---悟がこの世でどんなに辛い、苦しい目にあおうとも、それは彼が自身で選択し、生きることの代償に自ら選んだ、彼自身にしか責任の負いようのないことなのだ。  彼が自ら生きたいと望むなら、私はその意志を尊重しよう。  順子がぐっすり眠ったのを見はからってプリガフォーンの先端を彼女の腹にあて、こつこつとこの世の事象を教え始めた。悟がイエス・ノーという精神的なプラスとマイナスを把握し、トンと一回か、トントンと二回かの合図で意思表現出来るようになると、何とかなりそうな気がしてきた。 Q:誕生とは何か? A:それは母体の喪失(マイナス)である。  やってみれば分かるが、胎児に喪失感(マイナス)を理解させることは極めて難しい。何しろ、胎児はまだ何かを失ったことがない。  結局、私には教えることが出来なかった。  三週間の海外出張から帰ってくると、いつの間にか"ノー"を表現出来るようになっていた。順子がどんな魔術を用いたのか、それは私にも分からない。  次の課題は"無限"である。誕生は母体の喪失ではあるが、それによって"無限の可能性"が手に入ることも教えなければ公平ではない。"無限"という概念はどうやって教えればよいのか。 Q:無限とは何か? A:プラスとマイナスを延々と繰り返すこと。 Q:再度、誕生とは何か? A:母体という一つの温かい世界を失う替わりに、喜び(プラス)も悲しみ(マイナス)も無限に繰り返す新しい世界を手に入れること。  何か違う。  生まれることによって起こる"可能性"="多様化"が表現出来ていない。これでは、どんな人生を過ごしても結局は同じと言っているようだ。それは、ひょっとしたらそうなのかもしれないのだが、私が伝えたかった"無限の可能性"は、むしろ"全ての人生は異なる"ことを意味していたはずだった。  かけがえのない、"自分だけの"人生。 "自由"ということ。  ある法則に縛られたり、護られたりということと、正反対のこと。目の前に(繰り返しではない)無限の選択肢があり、自己の自由意志が未来を決定するということ。  その孤独感と開放感。  生まれる前の子にどうやって開放感を教える? …もう、時間がなかった。  予定日を一週間後に控えたその夜、私はプリガフォーンを手に取った。 「悟、これから一つ、大事なことを聞く。よく考えた上で返事をしろ」 ---トン(イエス)---  つばを飲んで、声と指でメッセージを伝えた。 「悟、お前はこの世に生まれたいか---?」  規則正しい順子の寝息が聞こえていた。答えを待ちながら、このまま息が止まるかと思えた。ひりひりする目の乾きに、慌てて瞼をしばたいた。あまりに長い沈黙に、悟、ともう一度呼びかけようとした矢先、反応があった。 ---トン、トン---  答えはノーだった。  何となく---そう、本当に何となく、私は悟が生まれてくるものだと思い込み、後で「なぜ産んだ」と言われたくないがために言質を取ろうとしていたに過ぎないのだった。だが、悟は世界を否定した。  悟はすでに自由意志を持ち、この世に生まれて愛されることをも拒否していた。  そう仕向けてしまったのは私だった。プリガフォーンを通して、私はペシミズムを悟に感染してしまったのだ。  馬鹿なことをした。  悟が生まれたくないと答えるならば順子もろとも殺してやってもいい、それが二人のためだと考えていた。  考えていただけだった。現実の私はそんなことが出来るほど利他的では有り得なかったし、それを利他行為だと言い切ることができるほど強くもなかった。今の状況と比較してみれば、悟の生存と幸福に関する全責任を負うことは(それが単なる決意のみで終わるものだとしても)私自身にとって"幸福"ですらあった。この世にすでにあるこの命、誰が見殺しに出来ようか。  何度も問い直しだが、気まぐれにも答えは変わらなかった。悟は頑固にノーを意味する二度のノックを打ってよこし、しまいには狂ったように順子の腹を連打した。  絶望的な気分で順子の顔を見た。  順子は激しく喘いでいた。その固く閉じた目尻についた一滴のしずくは、汗だったろうか、それとも涙だったのか。  胎児の側が"出たい"と母体に信号を送ることで初めて陣痛は起こるのだそうである。  まるで何事もなく予定日は過ぎてしまった。いつ爆発するか分からない時限爆弾である。緊張と不安が疲労になって、一日一日、肩に背中にのしかかってくる。  順子は、少々癪にさわるほどけろっとしていて、よく食べる。臨月ともなると胎児は下腹部に固定され、胎動も減って胃袋が楽になるらしい。私はずっと、体調がすぐれない。社長のビール腹を見てさえ手を休め、物思いに沈んでしまうので仕事の能率もあがらない。  金曜日になると、もう待てなくなった。土曜と日曜のまる二日間を、順子の腹を眺めて過ごすことは想像するだに気が滅入った。列車の窓から夕陽に赤く染まった瓦の波を見下ろしているうち、その中に飛び込みたくなって、いつもより一つ前の駅で降りてしまった。  順子の通う産院のある町だった。  産院に隣接した胎教スクールの建物には、以前に二度、ラマーズ法の講習を受けに来たことがあった。地下に温水プール、一階に胎教室、二階に新生児室、三階は育児室、四階は幼児教育の施設と、この建物を下から利用していけば自然に小学校に上がるまでの教育が整うようになっている。二階だけは空中に張り渡された廊下で隣りの産院と続いているのだが、私は産院の方へは行ったことがなかった。  受付は終了間際だったが、年配の看護婦は嫌な顔もせず順子の担当医に取り次いでくれた。産院に男が一人でやってくるのは相当、不自然に思えたのかもしれない。  医師の野口とは胎教スクールで一度、顔を会わせていた。頭の禿げ上がった初老のふくよかな男で、機嫌のいい赤ん坊をそのまま拡大したような和やかさがあった。 「奥様は立会い出産ご希望でしたね。どうですか、ラマーズ呼吸の学習テープ、やってますか」 「先生、予定日をもう、五日もオーバーしてるんですが」 「そうですね。予定日ぴったりに生まれてくる赤ちゃんはせいぜい五パーセントです。予定日の前後二週間くらいは大体、全部予定日の内ですよ」 「妻から聞きましたが、先生、陣痛ってのは赤ん坊が出たいとサインを送って起こるものだそうですね」 「そう言われてます」 「だとすればですね、ここにちょっぴり変な赤ん坊がいて、自分は生まれたくない、生まれるくらいなら母親もろとも死んでやろうと決意してたとしたら?」 「……」 「陣痛なんかいつまで待っても来ないわけでしょう。冗談じゃありませんよ。悠長に待ってなんかいられませんよ。帝王切開してください。嫌だと言っても、この世に引きずり出してやらなくちゃ」  だんだん腹がたってきて、自分でもびっくりするくらい声が大きくなっていた。 「……すみません。で、明日にでもお願い出来ませんか」 「ご心配はもっともですが」  野口はあまり嬉しそうな表情ではない。  こんなケースは初めてなのか。それとも、ありきたりのことで鬱陶しいのか。 「心配なんです」 「それは分かりますが。確かにですね、陣痛のないまま予定日を二週間も過ぎてきますと胎盤の機能が落ちることも考えられますし、胎児が大きくなりすぎるかもしれません。そういう時には切開も一つの方法でしょう。ですが、陣痛促進剤というものもありまして」 「……促進剤」 「危険な薬ではありませんよ。これを使えば絶対に手遅れにはなりません。別に赤ちゃんからのサインがなくとも人工的に陣痛を誘発しての、普通のお産が可能ですから。もう少し、様子を見ませんか」 「……はぁ……」 「それにね、アメリカの方の一部の学者は切開で胎児を無理やりひっぱり出すとトラウマが残るんじゃないかなんて言ってますよ」 「えっ」 「無理やり生きさせられている、とか、母親を無理やり奪われたという印象が残るだろうってことです。まさかと思うでしょう? 私も信じられませんよ。まさかねぇ。それはともかく、とりあえずは自然な分娩を目指しましょうよ。鳥が卵を孵そうとして外から嘴で突いたりしますか? 気長に待つ。温める。これが一番ですよ。登校拒否をする子ども。暴走族。核を持ちたがってる独裁制の国。みんな同じですよ。殻を持って閉じこもるタイプ。こういう連中には暴力は逆効果です。温める。友達になり、孤独を解消してやる。人間は自分の味方と思える相手の言うことなら聞くものじゃないですかね」  決意のほどもなく軽くあしらわれて、結婚してから住んでいる、家賃の安い五階建ての公団住宅目指して歩き出した。  会社は少し遠くなったが、静かで安全な町だった。公園や学校の配置には幼い頃に住んでいた町と似た趣があり、引っ越してきた当初には昔を思い出すような夢も見た。  もう、春だった。  濃い夕闇を温かいと感じた。路地に強い沈丁花の香りが立ち込めていた。セピア色のこの黄昏をどこまでも歩いて行けば失われた時の中へと溶け去ることも出来る気がした。  ふと、「ママ」と呼んでみたい衝動に駆られた。  母はいつも青いデニムのスカートだった。私はその裾を握って歩くのが習慣だった。不思議と手を引かれた記憶はなく、何だか大事にされていなかったような気がしないでもないが、幼かった私にとって母がかけがえのない存在であったことは間違いない。  なぜか、この場に限っては全ての事象が自分の思い通りになるような気がしていた。昼でも夜でもない、誰のものでもない、この"はざま"。温かいこの町の温かい夕闇。 ---呼んでみようか。  大きな声でなくていい。多少不明瞭な声でも構わない。彼女は聞き分けてくれる。夕闇を掻き分けて、青いデニムのスカートが、ほら、そこに待っている。辺りを窺え。そう、誰もいない。遠くに忘れられたビニールの縄跳びが転がっているばかりだ。もう、帰る時間なのだ。呼べ。呼べば、応えてくれる。母さんが迎えに来てくれる。あの人がすぐそこで待ってくれている……。  長い間そうして佇んでいて、結局、呼ばないことに決めた。私には帰るべき場所があり、今さら母を叩き起こすのは忍びなかった。  公園を突っ切ると、マンションの最上階のわが家に、他の幾つもの部屋とかわりなく橙の灯の入っているのが見えた。  少々、うかれすぎていたかもしれない。  ここ数日、答えの出ない設問に延々、悩まされてきた。  愛されることすら自己の自由を侵害されることと見なして拒否し、死を決意した子どもに"父親"は何をしてやれるのか。  元はと言えば"繰り返さない無限"目の前に広がる無数の選択肢の存在を教え損なった結果だった。とりあえず生きさせようと医師に帝王切開を頼みに行き、話をしているうちに気づいたのだ。  何のことはない、生まれるということそれ自体が無数の選択肢に気づくための最適の学習法なのだ。陣痛促進剤ならば、無理やりでなく、むしろ、自力で脱出したという自信、生存への勇気といったものさえ与えてやれるだろう。  あまりの体の軽さにマンションの階段を駆け上がろうとして、チカチカと切れかかった照明の下の、踊り場に座り込んでいる彼女を踏んづけるところだった。 「順子?」 「破水したの……」  歯のガチガチ鳴る隙間から、震え声が答えた。 「寒いのか? どうしてこんなところにいるんだ」 「タクシー呼んだの。竜一君、あたし怖い。陣痛がないのよ。胎動もずっと感じないの。袋だけ破けて水が全部なくなっちゃったら赤ちゃんどうなるの? もう、もう死んじゃったのかもしれない…」  足の先から背中まで、ぞおっと寒気がした。  かがんで順子の腹に手を当ててみた。  順子自身の温かみはあるものの、奇妙なしんとした静けさに突き当たって、思わず息を吸い込んだ。 「竜一君……」 「しっ」  呼吸を止め、目を閉じてひたすら神経を研ぎ澄ます。  腕時計の秒針の落ちる音。  順子の荒い呼吸。  順子の鼓動。血が全身に拡散し、胸に収束する音。  いろんな音が聞こえるが胎児の存在を示す音はない。だが、そうして耳をすましていると、何となく、悟の身に何が起こっているのか推測がついた。  自分が独りだった時、どんな気分で何をしようとしたかを思い出せば簡単なことだった。  破水するほど暴れて、悟はへその緒を自分の首に巻きつけたのだ。  自殺しようとしている。 「さとるっ!」  つい叫んだ瞬間、びくりと胎動があった。  驚きの直後、猛烈な喜びがこみあげてきた。まだ、間に合う。  順子が号泣していた。 「生きてるのね、さとる、死んじゃ駄目よ、生きようね、頑張ろうね」  必死になって腹の子に語りかける妻を見ていると、私自身の瞳からも、バカバカしいほど大量の涙が盛り上がってくるのだった。 <END>